1、はじめに

 古代史に興味をもつている人たちが、どのように考えたら良いのかと迷うことが幾つか
あります。そんな懸案をそのままにせずに一つ一つクリヤーしていくことが大切なのでしょう。

朝鮮半島の雄「新羅国」についても分からずに過ごしていた時代がありました。
今でもこの国をはつきり認識せずに古代史を語る人がいるのを見ると、「二つの新羅」を取り
上げる価値があるのではないかと考えます。

半島の歴史書「新羅本紀」は、新羅という国を一国の歴史にしているけれどその内容は正しい
のでしょうか。

いいえ。どうも二つの国の歴史を合わせて一つの国の歴史書を作ったように感じます。
そこで新羅の歴史を考える上で、「二つの新羅」という言葉を作ってみました。

実は「二つの新羅」という造語については、異議を唱える人が居ます。「複数の新羅」ではないかと。
分かっている方はいられるのでしょうけどそんな方は少数派で、寡黙ですから誰かが話しを
しなければならない。

確かに楽浪郡の近くにあつたという「原始・新羅」を考えれば、三つの新羅でしょうけど最初の国が
新羅国であったかそれとも斯羅国であつたかはつきりしない。

国の位置もはつきりしない。「〜らしい。」「〜らしい。」といつた話の国なのです。
それに「原始・新羅国」は倭国や日本国の歴史に影響を与えることはなかつた。

煩雑を避け、日本列島の国と古来から常に接触を持つた「二つの新羅」について話を進めること
にしましょう。
新羅という国が一つの国ではなかったということを知るだけで、歴史を解釈することが容易に
なるだろうと思うからです。

日本列島に卑弥呼が居た時代、朝鮮半島(以下半島とします)では列島と同じように小国家が
誕生していました。

半島では基本人種「扶余人」や基本人種「倭人」それに「夏人」と呼ばれる中国移住民などが、
それぞれ国を作ります。そしてお互いに混血して「・・・国人」と国籍が定まっていったものでした。

国の境界が決まった後の時代では、「倭」・「倭人」は「倭国」・「倭国人」でなければなりません。
どうも「倭国」は連合国家だつたようです。半島南部にはこの国籍を有した人達の活動がありました。

同様に半島北部にも扶余人の作った「高句麗国」や半島を南北に伸びる山嶺の西側には中国の
出先機関である楽浪郡や帯方郡が存在しました。東海岸には「東沃沮国」・「不耐・穢国」など。

この中間に三韓と呼ばれた馬韓・弁韓・秦韓があつたのですが、魏との争いとなりついに滅亡して
しまいます。帯方郡太守の弓遵(きゅうじゅん)が戦死するほどの激戦の末に韓は滅亡することになる。

この戦いに「倭国がどのような動きをしたのか」については記録が残っていない。
倭国はこのとき巧みな外交を行って魏との友好を保ち、さらに委託統治の範囲を広げたのかも
知れない。馬韓・弁韓の統治を任されたのだろうと考えます。

秦韓だけは、東海岸の諸国とともに楽浪郡の直接統治に編入され、都尉の治世下に入りました。
これが卑弥呼の居た時代の半島の姿でした。

ここでは「二つの新羅」はまだ姿を見せていません。北の新羅が歴史書に現れてくるのは、244年の
魏の母丘倹の討伐記事によってでした。

2、北の新羅

★ 地理的位置はどこでしょうか?

―【新羅国は、高句麗の東南に在り。漢代の楽浪郡の土地に初め居り、斯羅とも称えた。
魏の将母丘倹、高句麗を討ち、追い払われた人々は沃沮に逃げ込んだ。
その後、故国にかえつた人もいたが、とどまった人たちが新羅を作った。だから其の民には
中国・高句麗・百済の人が混ざり合い暮らしており、昔の沃沮・不耐・穢・韓の地を領土としている。】−
                                            (隋書新羅条)                            
漢代に斯羅という国を作り、魏の時代(244)「魏の母丘倹将軍によつて追い払われたひとびと」が
作った国が(前)新羅なのです。後に述べる(後)新羅に対して地理的に「北の新羅」といえます。

旧領土を見てみましょう。「沃沮」は東沃沮のことで、【高句麗の蓋馬大山の東に在り。
大海に接して住む。】、咸鏡北・南道であり、北側に北沃沮(咸鏡北道から中国東北部)と接する。

「不耐・穢」は【南は辰韓と、北は高句麗・沃沮と接し、東は大海に面している。
今の朝鮮(楽浪・帯方郡)の東は皆その地である。】
江原道は穢の故地(「古今郡国志」)とされています。

韓は【昔の辰韓・南は倭に接する】(三国志・東夷伝による)とあります。慶尚北道の北部と推定
されて、南は倭に接するとありました。

これが北の新羅の地理的位置です。咸鏡北道から慶尚北道の北部までの北から南に広がる
大きな国だつたのです。都は安辺郡といわれる今の元山付近にあつたのではないかと想像しています。

★ いつごろ国を作ったのでしょうか。

三国志には正始八年(247年)穢国人の朝貢記事があります。「不耐穢王」を賜るとありますから、
まだ新羅が国を作るのは魏の時代ではありません。

【楽浪郡・帯方郡に軍征、賦、調有れば供給、役使し、これを遇すること民の如し】と書かれています。
二郡が勢力の有る時代には直轄の民のような存在でした。

そうすると半島から中国の勢力が衰える四世紀初ころを考える必要があるでしょう
そのころに楽浪郡・帯方郡の衰退に伴い、高句麗の南下・百済・新羅の誕生があつたのでしょう。

倭国が国家体制を作り上げる頃に、半島でも新しい三国が出現して来たのでした。それに倭国勢力を
合わせた四国体制です。

国境を接した高句麗と早い段階から争いになつた百済は、倭国との友好に熱心でした。
それに引き換え、北の新羅は強力な高句麗の影響におびえながら倭国との付き合いもしなくては
ならなかつた

歴史書にはこんなことも書いている。「倭人大いに餓え、来りて食を求める者千余人」。
この倭人が倭国人であることはさきに断っていますが、海を越えた列島から来たのでない。

「倭人しばしば領域に侵入するので国境地帯に二城を築く」という記事もある。
半島南部には倭国人がいたのです。

高句麗と倭国の強力な影響を受けながら、自国の独立を保つということは至難なことだつただろう。
その勢力の伸張に合わせあるときは高句麗に、また倭国にと人質を提出したのが北の新羅だつた。

★ 消滅した北の新羅

四世紀末、高句麗との戦闘でいつたん後退した倭国軍は大王の直接指揮のもと、高句麗軍を
押し返し、 402年、北の新羅から人質を取りました。

倭国の最盛期といえる時代です。五世紀初頭、河内には巨大な大王墓がいくつも建設されました。
戦勝記念碑といえるものですが、労力と費用を負担したのはだれだつたのでしょうか。

418年、北の新羅から倭国へ差し出されていた人質末斯欣が倭国から逃亡したのも
高句麗の圧力だつた。419年には新羅は逆に高句麗に人質(王弟・宝海)をさしだしている。

高句麗に好天大王を上回る英傑の王が誕生したのでした。長寿王(413〜491)です。
これ以後、半島において高句麗の勢力が勢いを増しそれにつれて倭国の勢力は衰退して行きました。

北の新羅はその流れの中で高句麗に吸収されて姿を消して行ったと考えられます。
三国史記・地理二に【冥州郡(江原道)地名は高句麗の地名であつたのを景徳王の時代に
改名した。】とあります。

北の新羅の領土である江原道が高句麗の地名に変わっていたということは、北の新羅が
高句麗に吸収されて高句麗の領土となつたということでしょう。
そしていつたん「新羅」という国名は消えていたということなのです。

3、 南の新羅

 半島を統一したのは、慶州市を都とした新羅であることは、良く知られています。
この国が「新羅」を名乗るようになったのは、実は比較的新しい時期なのです。

半島の歴史書「三国史記」は「百済本紀」、「高句麗本紀」、「新羅本紀」に分かれていますが、
この「新羅本紀」第22代智證麻立干(麻立干は王の方言)の4年(503)冬10月条には、

−【群臣が上奏した。「始祖が国を始めて以来国名が未だ定つていません。あるときには、
斯羅(しら)と称し、あるときには斯盧(しろ)と称し、あるときには新羅(しんら)といいます。

私たちが思いますには、新とは「徳業が日々に新たになる」、羅とは「四方を網羅する」の意味
ですから、それこそ国号にふさわしいものではありませんか。

また、むかしから国家を支配するものは、みな帝とか王とか称しています。わが国では、始祖が
国を建てていらい今日にいたるまでニ十ニ世代にわたつて、ただ方言を称えており、

まだ王の称号を正式に採用しておりません。いま群臣の一致した意見で、つつしんで新羅国王の
称号を奉りたい(と思います)」】
【王はこの意見にしたがつた。】と。(金富軾平凡社、井上秀雄訳以下同じ)

 この503年という年は、倭国崩壊年であり、10月は暦(せんぎょく暦)の年初にあたります。
ここでは「新羅」という国号を採用したことに注目してください。

かつては鶏林と名乗った国であることは、統一新羅時代初め、唐がその国を鶏林州大都督府
として、金法敏王を都督に任命した事でもわかります。

★地理的位置はどこでしょうか?

南の新羅は、鶏林新羅と言い換えても良いかもしれません。
 三国史記・雑志地理一「新羅・加羅諸国比定図」によれば、鶏林新羅の位置は慶尚北道
南部の慶州を中心とした極めて狭い範囲に比定されています。

同図によれば、慶尚北道中部の迎日・安康のあたりに進出するのが370?年。
この北上は北の新羅と高句麗を大いに刺激しました。

広開土王(在位393〜413)の軍勢は395年秋8月百済と戦い、同月鶏林新羅は靺鞨軍と
悉直(江原道三陟郡三陟邑)の原野で戦つたと書かれています。

次に鶏林新羅が慶尚北道と江原道の境に勢力を伸ばすのは上の図で490?年となつています。
これが鶏林新羅の地理的位置です。
つまり鶏林新羅は北の新羅と慶尚北道の北部で国境を接しているまったく別の国でした。

★鶏林新羅のこと。

鶏林新羅の王は、昔氏(倭人海を渡って王となる)
 新羅本紀によれば、鶏林新羅の第四代脱解尼師今(尼師今は王の方言)は、−【倭国の東北
一千里にある多婆那国に卵として生まれた。そして海にすてられ半島に流れ着き、やがて王となつた。】

このとき大輔になったのは倭人瓠公。
【むかし瓢(ひさご)を腰にさげ、海を渡って来た。それで瓠公と称えた】−と
王と大臣が倭人(倭国人?)出身となつている国なのです。

 この王の九年には国号を鶏林と定め、昔氏の氏祖となりました。
以後この王の子孫は途中朴氏をはさんで九代伐休尼師今から十六代訖解尼師今まで
(十三代を除く)続きます。

 この鶏林の都である慶州市の王墓には、北九州前一世紀初めの土器が出土している。
「北九州との連携は非常に強かった。」と考えます。

任那を含む倭国の中で鶏林が別格の地位と尊敬を受けていた事実はどういう理由か
わかりませんが、もしかしたら昔から、姓氏録の−【新良貴。葺不合尊(ふきあえずのみこと)の

息子稲飯命の後裔である。これ新良国に出て国王となる。
稲飯命は新羅国王の祖。日本紀に見えず】−(右京皇別)

ということが人々に信じられていたのではないでしょうか。
−古事記によると葺不合尊は海神玉依毘売命と結婚。五瀬命、稲飯命、御毛沼命、

神倭伊波礼毘古命(かみやまといはれびこのみこと)の四人をお生みになられています。
−【御毛沼命は浪の穂を踏みて、常世国に渡り坐し、稲飯命は母の国として海原に入り坐しき】−

とお二人が海の中を渡り、かの地に坐すとみえ、残りのお二人が東征を実行され、
初代大王になられるのは、伊波礼毘古命(神武天皇)なのです。

これが事実ではないと思いますが、ただ稲飯命の後裔と主張する新羅王族の分家(ワケ)が
平安京右京に住んでいたことは、姓氏録の記載からみてほぼ間違いないでしょう。

★新羅本紀・日本書紀の読み方について
  今まで書いてきたように、新羅には二つの新羅があることが分かりましたが、同じ名前なので
区別して読む必要があります。

特に新羅本紀は、二つの新羅を同一の歴史書の中に取り入れてしまいました。
だから北の新羅から見た記事と、鶏林新羅から見た記事が混在しています。

例えば新羅本紀に書かれている「倭の侵攻記事」については、この倭が「列島の倭である」
ことに疑問を持つ人は多いし、「倭人大いに飢え、来りて食を求むる者千余人」は鶏林新羅から、
北の新羅に食を求めに行く人の姿でなくてはなりません。海を越えては食を求めにくいからです。

 新羅の重臣「于老」と倭使との争いも、両者の酒席の冗談から始まりました。
事件の概要は次のようなものです。

−【249年(列伝では253年)倭国の使臣曷那古が客館にある時、于老が接待した。
于老は客に戯れて、「早晩そなたの国の王を潮汲み人にし、王妃を炊事婦にしょう。」といった。

倭王はこの言を聞いて怒り、将軍于道朱君を派遣して、わが国を討つた。
于老は「この度のことは私が言葉を慎まなかったことが原因です。私がその折衝に当たりましょう。」

といつて、倭軍に行き、「前日の言は戯れに言つたまでのことです。軍を興してこのようにまで
なるとは、思ってもみませんでした。」と言つたが、倭人は答えず、彼を捕らえた。
そして柴を積んでその上に置き、焼き殺して去っていった。】−

 この話しには後日談があり、それには−【のちに倭国の大臣が来訪したので、于老の妻は、
倭の使臣を私的に饗宴したいと国王に申し出た。

その使臣が泥酔すると、壮士に庭に引き摺り下ろさせて焼き殺し、以前の怨みをはらした。
倭人は怒って金城を攻撃して来たが、勝てずに帰った。】−

 宴席の冗談がお互いの悲劇を招きましたが、この二人はどんな言語で会話していたのでしょうか。
「列島の倭人」が冗談を言い合えるほど半島の言葉にたんのうであつたとはとても思えませんし、

冗談を言った後、一日〜二日で列島から倭国の軍隊が来るなど出来るわけがありません。
倭使が帰って倭王に報告して軍を海路派遣するには、六ケ月はかかるでしょう。

この場合の于老のいた新羅は北の新羅であつたと思われます。
そして倭使は鶏林新羅から来たと考えるのが理に適うのではないですか。
鶏林から来るとすれば、短時間に来ることが出来るからです。

★ 同一の歴史書の中に取りいれられた二つの新羅が、お互いの国をどんな呼び方で表現して
いるかは、大いに興味のあることです。

 北の新羅に所属する秦韓は倭(倭国)に接していることは、中国史に記載されていますが、
新羅本紀463年条にも−【倭人がしばしば領域に侵入するので、国境地帯に二城を築いた】−とあります。

つまり北の新羅にとつて、国境の南は倭国人の住む倭国であり、倭国連合国の一国・
鶏林国が存在していたのでした。

それでは南の鶏林新羅から見る北の新羅は、史書の中で何と呼ばれているのでしょうか?
同じ国名を使っているのですから「新羅」が北から攻めてきたとは書けないはずです。

そこで次の記事を見てください。これは鶏林新羅から見た北の勢力が鶏林の国境に迫った
場面の記事ですが、
−【三月高句麗と靺鞨とが、北部国境地帯に侵入し、狐鳴(江原道金化郡或は竹嶺付近)など
七城を奪い、さらに進んで、彌秩夫(ビチツフ・慶北迎日郡義昌)まで来た。】−と、

ここでは鶏林に接する北部の勢力名を高句麗と靺鞨として表示しています。
 靺鞨という国は実は沿海州(ロシア)にいた種族で、「北の新羅」領内をを通り越して
半島南部の迎日湾近くまで遠征して来るとは考えられないことです。

だからこの靺鞨は「北の新羅」を表示していると考えて良いのでしょう。上の記事以外にも
百済や鶏林新羅と半島で争う靺鞨の姿を見ることが出来ますが、それらは「北の新羅」なのです。

 日本書紀についても、同様です。紀が書かれたときには、「北の新羅」は消滅していました。
だからすべてを「新羅」一国に書いています。

読む人がこれは「北の新羅」だ。これは「鶏林新羅」だと区別して読む必要があります。
 さてここでは、「新羅」という国が実は二つあつたということを、明らかにしました。

倭国の歴史の中で、「敵となる新羅」、と「倭国の中心的役割を果たす新羅」と性質が異なるのは、
もともと違う国だったのです。

人質を差し出していた新羅は「北の新羅」でした。倭国に貢献する新羅王子の天日矛は「鶏林
新羅」からお出でになった倭国籍の方だつたのでしょう。

この系統から神功皇后が出ていますし、皇后の「新羅遠征」は高句麗・北の新羅連合軍から
「鶏林国」を護り、北へ押し返す戦いであったと思うのです。

このことを知るだけで、その後の歴史の話が分かりやすくなるのではないかと思います。
ついでながら韓国歴史学者李鐘恒氏が書いた「韓半島から来た倭国」という本の中では、

鶏林国は任那の一国であるとして、503年に任那から独立して新羅になつたことが書かれている
のです。